家族とつながる

家族の諸行(因縁によって生じたこの世の一切の事) 「父の場合」#7

1980年8月、日本で世界選手権が開催された。最終番の日本対キューバ戦は最高潮で迎えられた。当日は、アマチュアの試合に関わらず、後楽園球場は、超満席だった。老若男女問わず、幅広い年齢層の一般の人々が当日売り入場券を求めて試合を見に集まって来た。父も気分は高揚していた。大会開催前は、連日泊まり込みだ。ただ、陣頭指揮で飛び回るのは大会が始まるまでだ。

父のやり方は、事前に出来る限りの周到な根回しと段取りをする。事が始まると想定外のことが色々な場所で起こる。だが、一旦事が始まると動かない。それぞれの担当している人に年齢を問わず任せる。場合によっては、電話にも出ない。自ずと周りに応用問題処理能力にたけた人が育ってくる。皆、最初は、冷や汗をかき、大変な思いをする。失敗も起こる。最終的責任は計画をした自身で負う。

この大会の興行的な成否が、財政的基盤づくりも含めて、世界野球界の流れを決めていく。入場料収入だけでない。テレビ放映権、企業からの協賛金も含めて、当初計画を大幅に上回る収益を上げられた。開催まで、国内の野球界のそれぞれのボスは、興行的に失敗することを恐れた。今迄に築き上げてきた基盤を損なう。国内だけで充分だ。何がオリンピックだという声も多かった。

成績は、日本は3位に終わった。しかし、興行的には大成功だった。世界の野球協会に十分な上納金を納め、財政的に健全化させた。且つ、日本の野球協会も自ら潤うと共に、先々にも、各種普及活動を財政的に支援していけるだけの財源を確保出来た。この時から、オリンピック種目入りに向けた動きが、加速された。
国内の反対ムードも消えた。プロも協力をし始めた。

“ムッシュ”の愛称で呼ばれる、元プロ野球在阪人気球団の監督も出現した。この人は、フランスでの野球普及で大貢献し、有名に成った。その他プロ、アマ含め多くの野球指導者たちが、海外普及の第一線で、何年にも亘り活躍した。海外でも、囚われの身のガルシアを除いて、ドンキホーテ集団は、全員フル回転で、大活躍した。矢張り軍資金が潤沢になったことは大きかった。

その様な流れの中で、一つの大きな目標に成っていた1984年のロスオリンピックを迎えた。ここでの野球公開競技の成否が、オリンピック種目入りの重要な鍵を握っていた。周到な準備がなされた。野球の母国アメリカでのオリンピックだ。腕利きの事業家ユべロス、ロス五輪組織委員長とも綿密に連携をとった。大リーグでもドジャースのオーナー、オマリーとその補佐マイク生原が多大な尽力をしてくれた。ソ連への働きかけも、日本経由で、柔道界の国際的な重鎮の尽力でなされた。総ての歯車が、野球のオリンピック種目入りに向けて、歩調を合わせて動いた。

ロス五輪の公開競技は大成功だった。大会屈指の山場、金メダルをかけた日米の決勝戦には、IOCのサマランチ会長、他多くの野球国以外のIOC委員が来ていた。超満員の入りだった。野球の公開競技の観客数は、陸上競技、サッカーに次いで、第3位だった。この姿を、IOC会長及び委員達関係者は目の当たりにした。8日間の公開競技で、アマの野球大会でも36万人が入った。

父は、この日本チームの団長だった。監督には、国際試合を勝ち切る為の激辛の勝負師を、父の肝いりで、指名し押し通した。チームは、大学と社会人の若手の混成チームをあえて結成した。平均年齢22歳強。無難な仕事でなく、困難な壁を突破できる若い力に賭けた。大成功だった。後にプロのヤクルトに行く、大学のホームランバッターが、劇的な大ホームランを放った。勝った。金メダルだ。

この勢いを保って、ドンキホーテ集団は、ギアを上げた。父も、中国本土に何度か足を運び、野球を普及させることに尽力した。中国も、代表を世界野球連盟に参加させる様になり、ソ連と中国も流れに乗って来た。

その頃、ガルシアが死んだというニュースが流れた。情報のもとが分からない。暫くすると、監獄で痛めつけられたことがもとで、死にかかっており、国外に追放された、と云うのが事実だった。第三国経由、米国に亡命した。最新の医療を施され、命を取り留めた。体重は30キロも減っていた。

だが、最愛の奥さんは、その前に、在住していたサンノゼから、姿を消した。父はじめ、関係者が定期的に、支援のお金を送っていた。鄭重な、お礼の手紙が、ある時から事務的なものに成った。ガルシアが何時出てこられるか、何の情報もないまま、何かが、彼女の心の中で折れた。アイーダも美人だ。失意の美人を、慰める誰かが現れたのかもしれない。この辺に勘の良い父が、男が出来たんだよと表現した。ガルシアは、生き延びたが、家族は崩壊した。

次回は、生き延びたガルシアと、いよいよ野球のオリンピック種目入りです。

イチゾウ

イチゾウ

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団塊世代、重厚長大産業出身、第二の人生真っ只中。

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